時間の厚み その2

 時間の厚みということを最近よく考えている。モノとの付き合いにしても長く大切に使えば使うほど、愛着がわく。愛着がわくことを突き詰めていくと、そのモノの存在に私とモノとの関係性の時間が反映されていて、そこには代替のきかない固有性があり、それが愛着になるのだろうと思う。使い古した皮のバックなどを目にすると、その人の生きた時間が反映されているようで、バックそれ自体からその人の生き様というか経てきた時間の厚みが放たれているように思え、素直にいいなぁと感じる。 
 人との付き合いにおいても同じようなところがあり、その人のことが好きかどうかということ以上に、その人と積み重ねてきた時間とこれから積み重ねるであろう時間の両方を含めた時間の厚みが何よりも愛おしく思える。中学生の同級生に会うと、その人がどうこうということ以上に、たとえ数年であってもかつて同じ場を共有し、同じ場で時間を過ごしていたということが基底にあるからか、中学生の同級生と会ったときにしか起ち上がらない時間の香りというか、厚みがある。

 死を含め、別れが淋しいのは、その人がいなくなったということだけじゃなくて、その人と積み重ねてきた時間の厚みがもう増すことはないということを知っているからだと思う。片方の存在がいなくなってからは、独白のように一方的にその積み重ねてきた時間を思い出すしかなくて、関係性から時間の厚みが増すということはもうない。

 別れによって関係性が断ち切られその人やそのモノとの時間の厚みが増すことはもうないにしても、それはそのまま終わりを意味するのでは決してなくて、残った時間の厚みが自分の中に実感としてちゃんと在り、ちゃんと在ることを大切にしていればそれはいま出会っている人やモノ、これから出会うであろう人やモノとの時間の厚みにつながってくはずで、まったく同じ関係性ではないにしても、形をかえて残った時間の厚みに還っていくのだろうと思える。だから、ひとつの時間の厚みが途切れてしまったとしても、必要以上に悲観することはなくて、今とこれからを丁寧に積み重ねていけばいい。

 若いときにはあまり実感を伴って考えることのできなかった時間というファクターが、今では、何よりもまして大事(おおごと)に思える。私も老けたのであります。