人生の鉄則

 保坂和志 『小説、世界を奏でる音楽』297頁より
 “・・・実加の周囲の人たちは、基本的に全員が“野心”といういままで文学がさんざん取り上げてきた、自我や能動性を疑わない、一本調子で、自分の社会的成功のためには家族も親友も犠牲にすることを辞さない(例:モンテ・クリスト伯桂春団治)ようなやり方でなく、かつてブルーハーツが歌ったように「なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ」をいっぱい集めるようなやり方で自分の信じるところを投げ出さずにやりつづけていこうと思っている人たちなのだ。はったりをきかせて世の中を渡っているごく一部のアーティストを除いて、大半のアーティストは美術の流れと自分の身体性との関係の中でとても繊細な作業を日々積み重ねているという現実はここでやっぱり思い出す(そういう現実を知らなかった人は、いま知る)べきだと思う。”
 「芸術のためには何でも犠牲にしていいんだ」という諒解めいたものを未だに垣間みることがあるけれど、それはやっぱりちがうと思う。その思い込みには、世界というかリアルというか、生命体が生きている基盤と芸術を引き離した、都合のいい考えにしか思えないし、ただ単に芸術という名を借りて、自分と自分の世界を、世界そのものやリアルそのものから切り離して狭い領域に押し込み、自分が傷つかないようにしているだけなんじゃないか。(そもそも「芸術は他の領域より優れたものだ」という思い込みがあるから、「何でも犠牲にしていいんだ」と思い込みが生じるんじゃないか。芸術家気取りの上から目線は端から見ていて最も醜いし、そいう態度から生まれる芸術って一体何なのだろうかと思う。)
 誰かを犠牲にしてモノをつくることが、世界と切り離した狭い人為的な芸術の領域において成り立つことがあったとしても、世界やリアルに開かれた領域においては、そんなモノ、長くは続かない。とは言っても、ほとんどすべてのモノが時間という人間を超えた力の前に無化されていくのだけれど、だからこそ、モノをつくりだす態度やプロセスが大事なんであり、それは花が種を残すようにして、続いていくように思う。
 齋藤真一 『齋藤真一放浪記』(齋藤真一展“瞽女と哀愁の旅路”より)
 “(瞽女さんが)その境遇の中に力一杯光をみつけ、楽しく真実を人々の為に捧げたことを考える時、コツコツとまるで時計にも似たあせりのない人生の鉄則をふみしめていたように思い、胎内仏、野仏あるいは絵馬の使命にも似た無作の祈願美に心うたれるのである。”