鷲田清一 『「待つ」ということ』 

 待つことは命がけの行為であり、究極の能動的行為だ。たとえ努力し精進したとしても、人間の分際ではやはり待つことしかできないのではないか。
生きることの根本に、待つという究極的行為は絶えず潜んでいる。その「待つ」に自覚的でありたい。 
“・・・ひとはひたすら待ち、思いはくりかえし絶たれ、やがて<待つ>ことそのことに疲れきる。それでもひとは待つ。待つしかない。もう<待つ>ことじだいに希望を込めないで、である。希望があれば失望がそれだけ大きくなるから。
 待たずに待つこと。待つじぶんを鎮め、待つことじたいを抑えること。待っていると意識することなくじっと待つということ。これは、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れる<待つ>である。とりあえずいまはあきらめる、もう期待しない、じりじり心待ちにすることはしない、心の隅っこでまだ待っているらしいこともすっかり忘れる。ここでなおじたばたしたりしたら、事態はきっと余計に拗れるから。”(55頁)

 “私はそれまでのように、「なぜ」という疑問を次から次に持たなくなりました。しかしそうなった本当の秘密は、私が自分自身のことや悲しみのことを考えるのを止め、そして子供のことばかり考えるようになったからでした。・・・私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました。”(99頁 孫引き パール・バック『母よ嘆くなかれ』)

 “「最後はあんたの人生やもの」・・・。<待つ>はほんとうはここではじめて始まるのだ、と言っておきたい。断念、それをくぐり抜けたところから<待つ>は始まる。”(111頁)

 “健やかな忘却の力・・・。忘れる、あるいは忘れたことにするというのは、じぶんが思い悩んでいる事態の脈絡のいくつかを外すということである。<わたし>が絡めとられているいくつかを消す、つまりはじぶんを押し殺すということである。「あんたはもういんものと思てる」と言うのも、「あのひとは死んでしもたと思うことにする」と思い定めるのも、「あんた」への期待をきっぱり棄て去るということである。本人にとってはそれはもう最後のあきらめかもしれないけれども、しかし、こうしたいくつかのコンテクストの削除によって、<わたし>がはまり込んできた事態の布置そのものが、知らず知らず、微妙に変わりゆきもする。つまり、別な状況が生まれることがかろうじてありうる。断念が断念に終わらず、これまで視野になかったことが生起しうる場を、忘却がたぐりよせるということがあるのだ。
 脈絡をたどる、あるいはたどりきるのではなく、そうした作業がついに煮詰まってしまい、事態がもう手の施しようがなくなってしまったときに、ふと偶然にまかせる、偶然に身をゆだねることで、新しい局面、つまり新しい脈絡が生まれてしまうということ、そうした僥倖に賭けるということも、事態を忘れることで起こりうる。そうした忘却のわざによって、ひとは現在に陥没するのではなく、現在の<外>へのつながりをかろうじて封印しなくていられるのではないか。”(181頁)

 “何かの到来を待つといういとなみは、結局、待つ者が待つことそのことを放棄したところからしかはじまらない。待つことを放棄することがそれでも待つことにつながるのは、そこに未知の事態へのなんらかの開けがあるからである。”(185頁)

 “待つことは、(略)希望を棄てたあとの希望の最後のかけらなのだろう。あるいは、希望が崩れたあとでも希望を養う最後の腐植土なのだろう。「腐植土」、ラテン語ではhumus、「ヒューマン」の語源である。待つことは「ヒューマン」という意味の根っこに食い入っている。”(197頁)