生の経験のナマナマしさと創作

 小林秀雄さんの講演録『本居宣長』の中で、経験と創作についてとても身に染みる言葉がある。
 『あなた今、経験ってものが一番スゴいっておっしゃたっね。そっすと、要するに経験の生々しさだな、そういうふうなものにリアリティってものを一番感じるけども、創作ってものはそれとどういう関係があるだろうかってことですか。
 生の経験ってのはなるほど生々しいけどもね、生々しいけども、あんまり生々しすぎるんじゃないんですか。だから創作ってものがあるんでしょ。
 たとえば詩(うた)でもね、生の感動ってものをかたちにしなきゃならんな、詩っていう。あら形式があらーな、ひとつの。だから、そういうものをかたちにしなきゃならないのが創作だろ。創作っていうのはやっぱりいつでもひとつのフォームなんだよ、かたちなんですよ。だからそのかたちにその生の経験を仕立て上げなきゃならないな。そういう歓びだね、創作の歓びってのは。
 それでその創作の歓びってものはね、そりゃ人の為じゃないね。やっぱり自分で自分の生の経験ってものを整理したいっていう要求だな。
 そでね、生の経験ってのは、ナマナマっていうけどもな、本当はよくわかってないもんだよ、生の経験ってのは。経験のリアリティっていうのは、本当の経験の味わいだなぁ、そういうふうなものはね、なかなか人間ね、直に来る衝撃が強いでしょ、衝撃の強いときにはみんな我を忘れてますよ。
 ほいで、本当にね、自分がそのときにどういうことを言ったか、行動したか、本当に強い経験の場合、知らんもんですよ、人間は。だけど、だいたいわかるような経験ってのは、あんまりたいした経験じゃないね、私の経験に比べると。たとえば、どんな経験でもいいんです、恋愛経験でもいい、何でもいい。この女と死のうだなんて思うときに自分の口走ったこととか、自分のやった行動なんてものはね、ぼく自身忘れていますよ。あんまり生々し過ぎますよ。そういうものを自分に納得させるためには、ひとつのフォームがいるんだよね。そのフォームをつくるのが創作だよ。』
 経験はあまりにも生々し過ぎる。経験したことにどう落とし前をつけるか。そのもがきの深さともがきの道程がフォームに成り、かたちになるんだと思う。真っ向からもがき、孤独を受け止め、フォームをつくっていくしかない。創作もそこからしかはじまらないから。
 自分の経験したことと向かい合うためのファイティングポーズをずっと必死につくっているのかもしれない。つまり今の自分はまだ闘う姿勢にもなっていないのだと思う。