野呂邦暢『夕暮の緑の光』より

 人はみな銀行員に生れつくのでも、作家に生れつくのでもない。しかしせっぱつまったときペンを取りあげて、彼は、と書きだせばその人は作家でありうる、少くとも何分の一かの。なぜ書くかというサルトルブランショの形而上的に壮大かつ精緻をきわめた分析に異議をさしはさむ気は無いけれども、窮地に陥って書くという答は問いの一部を満たす事になろう。
 私について言えば積極的に自己を進退きわまる所に追いつめたようなものである。十九歳の私は東京の会社をやめて徴兵ではなく兵隊になった。兵隊には生活は無い。あさはかにも人生に絶望し、初めから何もかもやり直すために選んだ場処に自分をおいて出発したいと思った。
 絶望は本物ではなかったかもしれない。しかし、自分の生きるところを兵営にしか見出さないのは、一つの絶望ではあるまいか。
 後に私は入隊を亡命の貴族的形式と評したシャイラーの言葉を知った。貴族はさておき、確かに私は何物からか逃れていた。原体験を兵隊生活に求めるのは一部分しか真実ではない。溯ればきりが無くなる。
 学生時代、“ブッデンブロークス”を読まなければ、田舎に居ついた疎開児童でなければ、原子爆弾の閃光を見なければ、郷里が爆心地に近くなければ私は書いていただろうか、やはり書いていたと思う。
 外から来たこれらの事は私にものを書かせる一因になったとしても、他に言い難い何かがあり、それはごく些細な、例えば朝餉の席で陶器のかち合う響き、木洩れ陽の色、夕暮の緑の光、十一月の風の冷たさ、海の匂いと林檎の重さ、子供たちの鋭い叫び声などに、自分が全身的に動かされるのでなければ書きだしてはいなかったろう。
 小説を読み映画を見るにつけ身につまされる事が多かった。他人事ではないのである。親しい友人は東京におり、九州の小都市で私は申し分なく一人であった。
 今思えばこれが幸いした。優れた芸術に接して、思いを語る友が身近にいないという欠乏感が日々深まるにつれて私は書く事を真剣に考えた。分りきった事だが、書きたいという要求と現実に一篇の小説を書きあげる事との間には溝がある。
 それを越えるには私の場合、充分に磨きのかかったやりきれなさが必要であった。と言い切るほど単純ではないかもしれないが、今のところ私が書きだした事情はこうである。
 作家丸出航、私は密かに呟く。舵輪をとる者は一人といういささかの光栄はあるにしても、この船に錨はなく、その港は遠い。
 自己とは他者である、と言ってのけたフランスの詩人を今なら理解できる。
 私の作品といっても二年間に五作しか無いが、それを批判する友人たちの手紙を読んでいるとき、天啓のようにこれがわかった。文体は言葉である。言葉は他人と共有できる唯一の物である。小説を書くとき、人は「私」という狭い檻から自分を解放している。
 十九歳の私はすすんで生活をおりた兵隊となり、八年後の私は、作品という樹の土であるあたりまえの生活を自分の手にとり戻そうとしていた。生活が無ければ作品は無い。(144〜146頁)

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