古井由吉『人生の色気』より

・・・土地の支えがなくなった人間や文学は、つらいものです。
 まったく歴史のない場所から、人はいったい、何を生み出すことができるのでしょうか。
 貧寒たる文学環境の中で、僕自身は、なるべく丁寧に言葉を綴る、というただ一つを心得にしてきました。僕らの世代まで下ってしまえば、鷗外や荷風のような漢詩文などの言語的な素養を持っているはずもない。それでも、じっくりと言葉と付き合っているうちに、だんだん、言語の中に垂直線が見えてきます。あらゆる言葉の下には、歴史や土地が持つ力につながるものが隠れていて、その力にすがっていれば何とかやれる、と早いうちから思っていたんです。
 作家の信条にするならば、言葉に仕える、というやり方です。書く現場の主人公は、書き手ではなく、言葉の方です。文章に苦労するのも、自力でいい文章を書くための努力ではなく、言葉を通して、その内側に広がる別の世界とつながるために、励んでいるわけです。作家の道具は言葉だけですから、実直に、ストイックに仕えるほかないと思ってやってきました。(36頁)
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