日々の修練と地味な積み重ねを通してしか、見えない流れ、感じられない何かがこの世界にはある。与えられ、横たえられた命を空と大地の間に立たせ、世界と相目見えようと思うのならば、自らによってだ。

白川静さん
“「命を知る」とは、与えられた命を自覚し、それに対応するということであろう。天命は自己の実践的な修為を通じて自覚される。単に所与的なものでなく、自己の行為を媒介として自覚されるのである。孟子の尽心下に
 殀寿貳はず、身を修めて以て之を俟つ。命を立つる所以なり。
というのはその意である。どのように生き、どのように死するかということが、人生の最大の問題である。
 私は若年のとき甚だ虚弱であって、兵隊検査のときには丙種合格であった。丙種でも合格というのは「蜻蛉蝶々も鳥のうち」という扱いかたである。それでどこまでやれるかということが、常に私の課題であった。その「どこまで」が、ついに今日に連っている。西行
 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
とよんで奥州に旅立ったのは、すでに六十九歳のときであった。私もまた「年たけて」と思いながら、今日を生きる。この四月には九十四歳になった。丙種合格の虚弱な男がこのように生き継ぐことができるのも、生命の神秘のゆえであろう。すべての生類は、基本的には自らの意思によって、その現在を実現しているのであろうと思う。”(『風の旅人』八号より抜粋)