小林秀雄『美を求める心』より

“・・・私達の感動というものは、自ら外に現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えてしまうのものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しはないでしょう。そういう時の人の表情は、醜く見えるかも知れないし、又、滑稽に見えるかも知れない。そういう時の叫び声にしても、決して美しいものではありますまい。例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。でも、あんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。
 詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、不断の生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする。その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。
 「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりとした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。・・・
 一輪の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、 優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。そして、優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。優しい感情を持つとは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。ただびくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な藝術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。”

向井秀徳“ふるさと” → http://bit.ly/f2IIfd